大都会の滝 2013年盛夏

大都会の滝 2013年盛夏
然のみならず
患難をも喜ぶ
そは
患難は忍耐を生じ
忍耐は練達を生じ
練達は希望を生ずと
知ればなり
ロマ書第5章より
昭和61年3月
森泰吉郎 毫
http://youtu.be/15nNVLd2ZJc
「くもとり号」昭和41年(1966年) 6月5日

茗渓堂の「山日記 1965 」 巻末に書かれている 名言。
「私は幾度か山日記をつけてみようとした。がその日の出来事を書こうとすると、その時は何だか馬鹿らしいような気がした。でも一寸した つまらぬことでも書きとめておくと、あとでその時のことを思い返す時、大へん役にたつものだ。」シプトン
「くもとり号」昭和41年(1966年) 6月5日
■古い記録を 整理していたら
昭和41年(1966年) 6月5日 の山行記録がでてきた。
三峰口 三峰ロープウェイから雲取山 石尾根経由 氷川(現在の 奥多摩駅)
まだ 若すぎる年頃、同じ年のM君との 2人での 山行。
今だったら 親が子供を連れて 子連れ登山などあるが
その当時 幼い年頃の同じ年 二人だけで 計画・立案・実行した山行。
それにしても 幼い同士 怖いもの知らずで、よく こんな山行をしたものだと いまさらながら 感心。
■山登りに かぎれば やや早熟? というより その当時は なにごとにも 若くして チャレンジすることが 求められる 時代背景があったのだろう。
何事にも前向きに 若い人が のびのびと好きな事が出来る そんな 古き佳き時代だったのだろう。
■ 昭和31年の日本隊のマナスル初登頂をきっかけに大きく火がついたような登山ブームがおこってから10年余たった昭和41年当時には 登山は ブームから いよいよ本格的に 大きく定着し発展していた。
昨今、中高年齢層が主体となっているが、昭和41年 どこの 山々も 若者 ばかりで 占められて 山をのぼるのは 若い人 主体の時代であった。
幼い 私など登山ブームの流れで 知らぬ間に この潮流の中に 入っていったのだった。
■その昔 東洋一のロープウェイだった三峰ロープウェイも 今は廃止。
熊谷経由秩父鉄道だったのが 池袋から西武線もでき西武秩父へ。三峰神社へは 自動車道ができ 西武秩父からバスで神社まで登れるようになっている。
それに 雲取山ピークハントだけなら鴨沢から往復するのが一般的なのだろう。
■山は 時代とともに アプローチも便利になり 登り方も 変わって 山小屋も大きく立派になり 山小屋泊まりで 縦走する人もいるだろう。
いまと 昔と 比べてみて 山自体かわってないところもあるかもしれない。
が 登山者がどう登るかという点では より不便で より苦労の多い 昔のほうが よりチャレンジ的な要素が多く ワクワクした山行が楽しめた のは確かだ。
■三峰神社 雲取山 石尾根 氷川。 確かに 長い縦走路だ。
若くても ロングコースを厭わず チャレンジする この時の山行スタイルは 時代背景は変わっても その後の 現在に至る 私の山行スタイルにも 様々な形で引き継がれていくことにもなっている。
この山行記録の拙い字句を みて 当時の記憶が あざやかに よみがえってきた。
(カメラは携行していないので写真なし)
■「くもとり号」
上野駅 始発 高崎線経由 秩父鉄道「三峰口」行
上野20時38分発
熊谷からは ガラガラ。寝ず。(一睡もせず)
三峰口 着 23:20
バスが まっていて すぐ乗り すぐ発車 40円
大輪 着 23:45
ここでも 少し雨が降っていた
5-6分 歩いて ロープウェイ駅につく
ロープウェイ 発車 220円高すぎる
山頂駅 24:00
大体 40人くらい 山頂駅に着く。
3-4のパーティーは 出発準備をしていた。
小雨
前に いく人の あとに ついて神社に向かった。道が少し 複雑だった。
24:30 神社の水飲み場でビバーク。寒い。小雨に濡れたためか。
風が強くなって 風下の 家の軒下へ移る。
結局 寝られたものじゃなかった。
他のパーティーは全部いってしまった。
■三峰神社 2:35 出発。ヘッドランプ無しで歩く。小雨は止んでいた。
月夜で明るいと思ってしばらく歩いたが やはり ヘッドランプだす。
道は 明瞭である。
妙法岳 分岐 3:10
霧藻ヶ峰 (4:00-4:15)だいぶ明るくなってきた。パッキングし直す。
お清平 4:25
すばらしい 夜明け
前白岩5:00
わりと きつい登り途中 15分休憩
白岩山5:50
芋の木ドッケ 6:00
だらだら道
大ダワ (6:25-7:20)朝食
■雲取山 山頂 (7:55-8:40)
しばらく休憩
雲取山荘9:00
水筒に水つめる
石尾根に向かう 長いだらだら道
10:50-11:30 昼食
六ツ石13:10 きたない売店
途中 2回 休憩
■氷川着 16:00
駅に近づくにつれ 山道を 歩いていく 都会着の 地元の方に 追い越されていった。

かつて 東洋一 今 廃止
山を完全に味わう
-----------------------------------------------
「 山を完全に味わう
山を完全に味わうということは
そんなに ムズカシイことなのだろうか?
・・・そう たしかに
その山を眺めているだけでは 無理かも知れない
・・・だからおれたちは氷の斜面を攀じ
岩壁の棚に泊まりながら
その山嶺に達しようと
努力しているのだが・・・ 」
『白い城砦』芳野満彦 著 1970年 あかね書房
-----------------------------------------------
山歩きを 貪欲に 楽しむ極意は 山を登るのに いかに 苦労して登るか どうかにある。
快晴無風の いい天気でトレース のしっかりついた コースを 人の痕跡のとおりに 登る 雪山 もよいが、それより厳寒の風雪のなか 底なしラッセル、低視程でルートファインディング に苦労して 登るほうが 同じ雪山を登るのでも 10倍以上に 山登りを貪欲に楽しみことができる。
たとえ 同じコースを登っても、より すくない労力で 楽して 登れば 苦労して登るのに 比べれば、えられる感動は とても すくなくなる。
できるだけ 多くの労苦をして 登ってこそ 山登りの楽しさを より 深く味わえるというものだ。
このことは 便利な 交通機関を使わず わざわざ 歩き遍路で巡礼するのにも よく似ている。
ただし 山のなかは 危険が いっぱい。
だから 山の危険を十分 認識し、自分の技量 体力 経験など勘案して、 自分の 登るスタイルをきめ 装備、 登るルート、コース の選択も慎重に判断し 綿密に計画を練り上げて、自分が 安全に登山できる 範囲内で山に登らなくてはいけない。
あくまで自分の範囲内で より 多くの 苦労をして 登ることで より多くの 感動を えられる。
振り返ってみれば いにしえから 山に登る者は 山のたのしさを求め いかに苦労して登るかに こだわってきた。
簡単には登れない より 難しいバリエーションを 困難を 求めて、すこしでも 難易度を高め 続けて きたのも、山を もっと もっと 貪欲に楽しもうと 努力し 続けてきたからだろう。
だが
ひとつ 山を こえれば また 山がある。
さらに その先にも やま また やま。
また その先にも さらに やまなみが連なっている。
一山越えて また一山
-----------------------------------------------
「 山なみ
見知らぬ山が
幾重にも 幾重にも
遠く連なる
白い大波のようだ
僕の瞳は まるで
土管のように
頭の中へ筒ぬけだ
山 山 また山
白い大きな波
その うねり
それらが
日本アルプスでもヒマラヤでも
僕は いっこうにかまわない
その太古ながらの
静謐な白い波 」
『山靴の音』 芳野満彦 著
-----------------------------------------------
雪山の難さの 第一は まずアプローチ
大雪、敗退の 2011年1月16日。
敗退して改めて 雪山の難さの 第一は まずアプローチにあるのが再認識できた。
ふだん 自動車で 標高の高いところにある 上の登山口まで 自動車で 一気に 登ってしまう 便利さに慣れきって しまっていると、 人間 どうしても 楽なほうに流れてしまう。
思いおこすと その昔の山歩きでは 久保から 標高差1200m以上を 当然のように 何度も 登っていた天狗塚(1812)。
それが いつの間に 西山林道が延びて 林道を使って 上の登山口から登ることになってしまい、標高差は半分、久保から西山林道までの旧 登山道は すたれた。
いまでは わざわざ苦労して下から旧道の登山道を登ることなどなくなってしまった。
だが 大雪で 除雪がないと 下の登山口から林道を歩くか 下から旧登山道歩くか。
1月16日の状態だと どちらをとっても それ相応に ラッセルがあり、 それなら距離の短いほうがいいだろうというので旧道を 選択をした。
要は 昔 ここから登っていた時代に戻っただけのこと。
山に登るには これしかないという 昔に戻っただけのこと。
みわたせば、冬場も 賑わうのも除雪の行き届いたアプローチの とても楽な一部の山だ。
本来の アプローチの長い雪山コースは だいたい敬遠される。
こうしたアプローチの困難さを 腰をすえて 克服するところに雪山のよさがあるのだが、敗退して 結果的に このことが実感できたのも1月16日の山だった。
やはり 昔の人のほうが よくあるいた。
「乗合自動車は、たいてい稲核までしか行かない」 加藤文太郎
京都大廻り 84km
四国から参加された グルンさん が 初出場で 無事完走された。
日本海 早月川河口 をスタートし、北ア、中ア、南アを抜け、太平洋静岡大浜海岸まで1週間で走破する とても 過酷なレース。
台風の影響で 悪天候の中、完走だけでも 大変なのに グルンさんの見事な「快挙」を 心から祝福したい。
ところで それにしても 5日間05時間22分の大会記録更新でダントツ優勝された方。
5日間で合計睡眠時間9時間とか?
------------------------------
海外のレースなど過酷なものが多いと聞くが、
レースでなくても
ランナーのロングトレール走破記録は一日50マイル以上のもあるようだが歩きのトレッカー Andrew Skurka 氏のロングトレールの踏破記録は注目に値する。
2006年のPacific Crest Trail 2006 - Californiaでは
Total Distance Covered: 1,744 miles
Time on the PCT: 45 d 16 hrs
Pace: 38.2 mi/day
(Horton's Record Pace: 39.5 mi/day)
Weight Lost: 25 lbs | Snow in the Sierra: A lot
Base pack weight: 5.8 to 7.6 lbs
荷物を背負い 雪もあるような山道など含め 毎日60km以上の歩きのスピードはすごい。
------------------------------
日本国内で もっとも これ以上に過酷なのは色々あるだろうが 荒行で知られる 千日回峰行だろうか?
比叡山 千日回峰行 6年目堂入り、9日間 断食、断水、不臥、不眠不休で勤行。
7年目 年200日のうち 京都大廻り84kmは100日間。ただ歩くだけでなく 読経など勤行しながら。連日 睡眠2-3時間。
草鞋で白装束での荒行。
全く 常人には考えられない世界、ここまでのことができるということか。
大廻り
「午前一時に自坊の玉照院を出発、山上の行者道を通って東塔、西塔、横川をまわり、山下の坂本に下り日吉大社を拝み、再び無勤寺の自坊へ。
この間 三十キロを六時間がかりで歩く。
午前七時、お勤めのあとに朝食。京都大回りにスタート。四明嶽から雲母坂の十キロを駆け下り、赤山禅院でこの日 三度目の草鞋の履き替え。
午前十時、赤山禅院を出発し旧白川通りを南に歩き途中で真如堂、平安神宮など数ヶ所で修法。午前十一時半、東山区栗田口の吉水庵で昼食、休憩。午後零時半、八坂神社から産寧坂を一気に駆け登り清水寺に参拝し、車の波をぬって松原通りを西に歩く。午後一時四十分、六波羅蜜寺を経て堀川通りを北へさらに三条通りを西へ歩き、途中の民家で十分間の休憩。午後三時、出世稲荷から千本通りを北上し、北野天満宮、西方尼寺、上御霊神社へとまわる。午後五時半下鴨神社着。そして午後六時には宿坊の清浄華院に到着する。
赤山禅院を出てからの市中は約四十四キロ。この日、午前一時に出発してより、合わせて八十四キロ歩いたことになる。
宿坊では入浴し勤行が終わるのが午後の九時前後。それから数時間を仮眠にあてるが、午前零時前には起き、朝の勤行をすませて翌午前一時きっかりに宿坊の清浄華院を出発する。前日に歩いた逆コースをたどり、叡山に向かうのである。」
『北嶺のひと 比叡山・千日回峰行者・叡南俊照』
昭和61年初版、平成19年十刷。
はやしたかし、村上 護 著 校成出版社
叡南俊照師は香川県坂出市の生まれ。
大会新記録 5日間05時間22分。ゴール。
速い。大会記録 更新!!
5日間05時間22分。
望月選手、ゴール。
台風の影響で悪天候だったのにすごい記録ですね。
http://tjar2010.seesaa.net/article/159288286.html
ATC Storeさんのブログ記事
ゴール写真1atc_store さん提供
ゴール写真2atc_store さん提供
アラジン静岡店あたりからの写真が見られます。
trail_agohigeさん提供 写真
四国から参加の(グルンさんと スーパーレディーさん )
南アルプス 頑張って下さい。
----------------------------------
公式ブログ
http://tjar2010.seesaa.net/
fofさん 作成の途中経過
http://bit.ly/cX4erd
参加選手
hiroさんのブログ
信州トレマンさんのブログ
トランスジャパンアルプスレース 2010。
日本海 早月川河口 をスタートし、北ア、中ア、南アを抜け、太平洋静岡大浜海岸まで1週間で走破。
2年に1度の耐久レース。
今回は速いペースで進んでいるようで、トップグループ は中間デポ地点の 市野瀬に10日 14〜15時頃 到着し、その後 南アルプスへ。
今後天候 とくに台風の動きが気になりますが、四国から2名の方が参加されています。
四国内での山行で 何度も ご一緒になった お二人(グルンさんと スーパーレディーさん )です。
現在 中ア付近を進まれています。
ご健闘 祈念します。
------------------------------------
レースの模様は下記URLで
公式サイト
http://tjar2010.seesaa.net/
fofさん 作成の途中経過
http://bit.ly/cX4erd
参加選手
hiroさんのブログ
信州トレマンさんのブログ
南寺

南寺
はじめ暗闇と思っていても じっと 我慢していると 闇の中から ぼんやり明かり が見えてくる。
-----------------------------
マタギは夜道でも昼のように歩く。
「熊を追いかけているうちに暗くなることはよくあること。しかし 暗いからといって懐中電灯をつけると 熊に警戒されるばかりでなく、かえって視野が狭くなってまわりが見えなくなるので、つけないで歩いてしまう」
「映画館と同じでいきなり暗いところに入ると見えないけれども、少しずつ暗くなる場合は目が慣れるから結構見えるものです。」
しかし 一度でも懐中電灯をつけると瞳孔がが閉まり、懐中電灯を手放せなくなる。
「目が闇に慣れたといってもあくまでぼんやりとしか見えない。足は沢を渉るようにゆっくりとすり足で探りながら歩くといい。」
「 マタギに学ぶ登山技術 」 1991年 工藤隆雄著 山と溪谷社
日暮れて道遠し
人の持ち物に 無断で自分の名前のタグをつけるようなもの
かなり以前のことであるが そのころ通っていた ある山域。
その 山の中で 出会った 地元の林業関係者から 登山者のつける「テープ、私製標識類」に 厳しい苦言を 直接 聞いたことがあった。
手塩にかけて 植林して 育てている 木々に やたらと テープなどつけるのは何事か? 人の山に来て 無神経ではないか。
もともと 赤テープ反対派の私は そのとき「そうですね」と相槌を打ったが、
そのとき 「○○山岳会」などの名前入りでつける標識など とくに 非難が集中していた。
いわれてみれば 人の持ち物に 無断で自分の名前のタグをつけるような 行為といえる。
私有林 国有林 でも ほかに所有者にが おられる事ですから 山中に入らせてもらうだけでも有難いことだと感謝の気持ちをもって そっと静かに入り、たち去るのが登山者の守るべき 基本的なマナーだと思う。
ガスで低視程の牛の背を下る
赤テープ考
以前は 人が住んでいた。

以前は 人が住んでいた。
空き家になっても 通りかったときには たまに 年老いた方が 荷物の整理をしていたりしていた。それを最後に見かけたのも 数年前までと 記憶する。
ここ最近では もう すっかり 人の気配が無くなってしまった。
今 この集落全体で見渡しても やたら廃屋が目立ち、ごく僅かな人が残っているだけだ。
旧 徳島県 三好郡 東祖谷山村 深淵
(現 三好市 東祖谷)で2010年6月12日撮影